Category: 『今日の散歩道』(ミニコラム)

思考=施行ではない

よく色々なことを考えてみることが増えた。

増えたといっても大半は自身に対してのルールでしかない。

例えば「今日から1週間で体重を2キロ減らす」とか「この本を1週間で読みきる」とかいうくだらない内容ばかりだが、こういうことを考えるのも日ごろのボケ防止と自身の好奇心や生活力等々の向上につながると私は考えている。

しかしながら、仕事はまた別だ。

考えても考えても上手くいかないことが多いはずだ。

「スケジュールの組立」に「営業のプレゼン」なんて具合に考えるのは誰しもが行うことだろうが、万人が万人納得することはなかなかない。

あったとしても条件付や妥協というおまけ付ということもある。

だが、まだそれでも自身の考えを聞いてくれる、通してくれる人間がいることは救いである。

それすらなかった時、本当に考えることをやめてしまおうかと思ったこともあるだろう。

自身の考えと相手の考えがイコールであること自体があるなどという考えはないが、さすがにそれすら否定されてしまうと自身がやってきたことに対して嫌悪感を覚えてしまう。

全てにおいて完璧な人間がいるわけないことは分かっているし、一定の妥協点も必要ではあるが、自分の意思を崩してまでそれを受け入れてしまうことだけは私はしたくない。

そうせざる時もあることは分かっているが、どうしても自己否定されることは生きていることを否定されるのに等しいとしか思えてならない。

難しく考えすぎなのは理解しているが、一方的な態度を取られてしまうとさすがに精神的に参ってしまう。

そうであれば何事も決められたルールで生きていき、なおかつ考えずただただ無心にしていた方がどれだけ楽か。

とはいえ、「楽」を求めたところで実現などしないのもわかっている。

道なき道を常に進まなければいけないのだ。

しかしながら、近頃はどうも否定ばかりの世の中になってしまったようでならない。

何をしてもまずは批判からでしかなく、正当性があっても聞こうとしない。

人が人で無くなっている、人が人から逃げている、人が何もしなくなっているそんな世の中が今なのだ。

私も全てにおいて例外ではないが、せめて自分の意志だけは捨てないようにしている。

捨ててしまった時、私は思考が無くなり、ただのロボットになりさがるのだけは嫌だから。


オリンピックから考えること

8日の早朝、2020年のオリンピックが東京で開催されることが決定した。

安倍総理以下、猪瀬都知事、竹田JOC会長、各種アスリート選手、応援団、国民の意思がIOCの方々に通じたのだろう。

とはいえ、実際のロビー活動というものは凄まじかったようで、今回競い合ったマドリード、イスタンブールの各国も相当PR活動を展開したようだが、軍配は日本だった。

国民として私はオリンピックが開催されることは心から喜ばしい反面、懸念もある。

以前も書かせて頂いたが、「雇用問題」や「増税問題」などのしわ寄せが国民に悪い意味で押し付けられる可能性、「原発問題」の解決のための進捗、被災地域の「復興」への足かせなどである。

喜ぶべき点は多々あるのだろうが、実際問題として7年後の開催までに会場整備の完了、東京だけでなく日本自体が放射能等の環境や治安からの安全があるのを念頭に入れなければいけない。

また、追加種目としてレスリングが決定したが、正直言って種目の制限をすること事態が私としては合点がいかない。

スカッシュや野球、ソフトボールといった競技だって立派な国際スポーツであり、競技人口だって世界中にいるのだからオリンピックの種目に入れた方がより盛り上がると考える。

かつて古代オリンピックでは芸術を競う競技さえ存在した。

国際的に競い合い、感動を生み出す大会であるからこそオリンピックはアスリートが求める究極であり嗜好のスポーツ大会なのだ。

そう考えると落選したスポーツのアスリートたちの落胆した表情と涙は忘れることが出来ない。

さらに懸念することは今回落選した開催地各国およびスポーツ競技の批判である。

その批判の矛先がどこに向けられるか判らないが、批判よりも感謝をすること、次回開催を目指すことをしてあげるべきだ。

日本だって場合によってはその立場になりかねない。

想定される批判はロビー活動の少なさ、原発問題の政府対応、東京都の対応、国民の開催を望む意思などだろうが、それを全て責任にしてしまったら私は批判者を哀れに思う。

勝利が全てという考えだけでは敗者の気持ちを知ることは出来ない。

どちらも兼ね備えてこそ人だ。

批判無く、楽しく平和なオリンピックが開催されることを期待したい。


頼るべき方向性が間違っている

近々の出来事ばかりだが、今、国民が望んでいることは2020年の夏季東京五輪開催だろうか。

9月7日に正式決定する中、日本は最有力候補と言われ、事実、とあるマスメディアの取材では頭差ではあるがトップになっているという。

遡ること1964年、第二次世界大戦後、敗戦国として国家回復を目指して19年で得た五輪は敗戦国から先進国への生まれ変わる布石となった。

五輪で得る「特需」という景気回復のカンフル剤は日本を大いに潤す結果となった

しかし、今考えてみるとそういう「イベント」にのみ景気回復の望みを託している部分が強いのではないか。

1972年の札幌、1998年の長野の冬季五輪開催、2002年のサッカーW杯、1970年の大阪、1985年のつくば、2005年の愛知で開催された国際博覧会などでは地域や国が一体となって誘致・開発・運営等を行い、その都度雇用促進と景気回復への貢献をしたが、過去の栄光は必ずしも続かず、観光地として成功した場所もあれば逆に荒んでしまった場所もある。

「箱物」と言われる公共施設やインフラ整備のための投資は雇用を生むし、各イベントにて販売される物品も売れれば地域・国家を潤わせる富になるのだが、それは本当に一時しのぎでしかない。

今回の東京五輪が決まれば数百億規模のお金が動くと言われているが、そのお金がどのくらいの雇用と富を生み出すのか、そしてその雇用と富はいつまで続くのかなどと考えていてはこの先が思いやられてならない。

また、AKB48でも初期メンバーが卒業し、残ったメンバーがこれからのことを不安視しているなどというマスメディアの報道があったが、活動する中で残ったメンバーがそのようなことばかりを考えているようでは今後の発展は有り得ない。

不安視することが悪いとは言わないが、それが本音である以上、そのメンバーに頼りきっていたということを示すことになる。

残ったメンバーがこれからどのように盛り上げ、グループを築いていくかを考えなければいけないと思う。

シリア情勢の不透明さから欧米列強は国連を通じて軍事加入を考えているようだが、これもまた旧ビルマやイラクやアフガニスタン等々への軍事加入と同様に「力」を持って制裁および統治をすることで治安維持や新国家の建設につながるという間違った発想だと私は考える。

軍事介入をすることが必ずしもその国に対しての「正義」にはならない。

出来るだけ「対話と圧力」という押し問答を続け、その間に諸問題を解決していけば無駄な戦争による犠牲も少ないはずなのだが、どうしても軍事加入が一番解決に早い道筋なのだろうか。

頼るべき方向性を間違えれば必ず間違った方向へ行く。

それを見極めるにはもう少し考え方を柔軟にした方がいいのだが、なかなか難しいものだ。

せめて、人の尊厳を無視するような行為だけは避けてもらいたいものだ。

それが出来なければ方向性云々も決められない。


成人を過ぎたら年齢制限などは設けない方がよい

年々平均寿命も高年齢化することは喜ばしいが、その一方で少子高齢化が進み、既に高齢社会に片足を踏み込んでしまっているのが現状で、公的でも民間でも高齢対策が追いついているようにはとても思えない。

テレビで見る保険のCMでは高齢者でも加入出来ると謳っているが、実際は一定の年齢までしか入れず、企業の定年者への再雇用についても65まで義務化される中、年金授受の関係などにより身分や給与などの待遇が悪く辞めてしまうケースも多いようだ。

そのためか、技術が必要な業界では若手育成が間に合わない上、再雇用が上手く行かないため技術伝承が出来ていないケースもあると聞いた。

また、晩婚化が進んでいるという中で、「高齢出産」に伴う不妊治療等にも制限が出来ている。
少子という状況下、高齢であれ妊娠・出産を望む方は多いようなのだが、医療関係の補助が足枷になるという。

このまま高齢社会に突入し、現状のままで各種推移すれば国家が無くなってしまう危険性すらある。

対策等については各種様々あると思うが、まずは成人になった段階で設定されている年齢制限を撤廃してしまうのが一番だと私は考える。

雇用や生活にしろ、金が回らなければ企業が成り立たないし、働けなければ生活が成り立たない。

また、医療・福祉についても手厚い保護が必要である。

年金を払っていても貰えなくなる危機すらある中、現状に甘んじていては何もかも崩壊してしまう。

「ゆりかごから墓場まで」という某国の各種手厚い保証があれば別だが、それすら見込めない。

行政もそうだが、企業としても対策を講じなければ先は無い。

若者に対しても高齢者に対しても手厚い保護と自立と共生をさせるためにもっと動いてもらいたいものだ。

職・食への冒涜

先月くらいからだろうか、飲食店等における従業員の不適切な行為が報道されたのは。

店内のショーケースに入って写真を撮り、それをSNSにて公表するという行為自体に疑問はなかったのか。

当事者たちは何を考えてやったのかを改めて問いたいと思うほどこの話題は不快だった。

これから何百という顧客が購入しようとしている商品と店をネタにする行為は犯罪というよりも人としての根本的な倫理が成り立っていないように私は思えてならない。

よく親や教師などに「食べ物を粗末にするな」と言われたが、好き嫌いとは訳が違う。

自分たちのネタのために利用された食品は全て廃棄され、店や運営企業は信頼を失墜するということを考えなかったのだろうか。

ある企業に至っては発生元の店舗を閉店させ、加害者側に損害賠償をするというような記事もあった。

「従業員の教育が至らない」とか「正規外の雇用が招いた結果」とか色々と企業への責任が問い立たされるが、これはあくまで個人の問題だろう。

何をするにしても「やっていいのか」という考えは必ずある。

そこに抑止力や社会的な考えがあればこのような事態は食い止められたはず。

だが、模倣的な意味合いからか、最初の不適切行為以降増え続けている。

その行為をした時は達成感はあるだろうが、やってからでは遅いし、反省しても許される行為ではない。

私は今回の件は企業が当事者に対して解雇という処罰のみでいいとは思えない。

行為としては譴責くらいで済むかもしれないが、公になり、なおかつ他者への迷惑をかけた行為は甚大だと考える。

個人的には民事事件にしてもよいと思うくらい悪質だと思っている。

当事者たちの社会的責任は重い。

これ以上こういう行為が起きないよう企業は規範を守り、各個人はやってはいけないことと認識すべきだ。

このような事件がパロティ化されないことを切に願いたい。

「ならぬことはならぬ」という会津の什の掟の一説が身に沁みる。

下世話な感じが蔓延しているようで

各種マスメディアを見て思うことがある。

スキャンダルとか事件をネタにする「下世話」な内容が増加傾向にあると思う。

TVなどでは夜から深夜枠でこのような内容の放送は以前から見られており、いかにも時間帯に見合った内容だなという感じで見ていたが、やがて午前中や夕方という時間帯においても同じような光景が見られるようになり、内容もより過激になっている。

いくら「芸」が商売だからといってそこまで公にするものどうだろうかと疑問に思えてならない。

電車の中刷り広告を見ても前面に出るのは下世話な内容ばかりで、周囲の話もそのような話題が増えてきたように思える。

下世話も内容にもよるかと思うが、正直言って今の状況はあまり好ましくない。

下世話=エンターティメントや評論・文芸という構図があるのは判るが、それを前面かつ中心にしてしまうのは人の品格を問うことになるのではと私は考える。

いつまでもこれではいずれ人はマスメディアから離れるだけでなく、このような下世話が嘘であれ信であれ蔓延して人が人を信用出来なくなる日がやってくるようで恐ろしい。

「言論の自由」という表現が痛々しい。

今日の一言
「家族間の事件が増えていることが痛ましい。心頭滅却を心がけよう」

酷暑の方が嫌だけど納得!

連日の30度越えはさすがに身体が辛い。

この暑さによって熱中症患者も昨年より倍増しているが、まだまだ夏は始まったばかり。

いくら熱中症予防すればといってもこれでは身が持たない。

水分補給といっても水やお茶、スポーツドリンクでは身体が欲する各主成分を得られるわけでもないし、かといって推奨されている経口補水液ばかり飲んでも今度は塩分の取りすぎとかで身体に負担がかかる。

身体を冷やすということで室内の空調を下げても今度は身体が気だるくなってしまうような冷房病になる。

また、水分をあまり取らないと脳梗塞のリスクが高まるという話もニュースでやっていた。

夏バテになれば食欲は減退し、夏風邪を引けば直りにくい。

どっちつかずで、人というのは改めて繊細な生物なのだと思い知らされる。

「猛暑」ではなく何事にも酷であるから「酷暑」という表現がいいように思える。

皆々様も身体をご自愛下さいますように。


今日のひとこと
「吉田昌郎氏に感謝と黙祷を。菅直人氏には猛省と引退を」



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