Archives : 2013年05月

梅雨入り

昨日から関東地方は梅雨入りになったとの報道があった。

確かにここ数日間の天気からすればそろそろとは思っていたが、意外と早かった。

気象庁の公式データを見ると、昨年は6月8日に梅雨入りになったそうで、過去30年の統計平均では10日、前年度比では11日早かったそうだ。

それに今までの統計の中で歴代3位に入る速さとのこと。

春夏秋冬という四季の中で、天気も時期により様々だが、近年の気象データは気候の変動等により例年より早くなったり遅くなったりするそうだ。

昨年の梅雨明けは7月25日、統計平均だと7月11日、今年はどうなるのだろうかわからないが、近所のスーパーでは早速梅雨入り対策の用品を店頭に並べたり、クールビズ商品も多く取り揃えられていた。

そろそろ夏がやってくる。

周囲では五月病ではないが、ちょっとした気鬱的な雰囲気が漂っているだけに心配だが、耐えれば楽しい夏である。

思いっきり気分転換をして秋冬に備えてもらいたいものだ。

今日の一言

「見えない病が様々なものを蝕んでいる、断ち切るのは己次第」

言論・表現の自由は大切なのだが・・・・・。

先日、作成した文面に対してご指摘を受けた。

「固有名詞や社名等を載せないほうが良いのでは」とのこと。

私のことを思ってだと思うのだが、正直な話、お節介だと思う。

内容や固有名詞等を暈すことも必要ではあると思うが、それは他人が決めることではない。

何事もそれに左右されてしまうのでは正直言って、言論・表現などしたくない。

また、面子や保身でそれをやられてはコミュニケーションというもの自体私は成り立たないと考える。

こればかりは各人の考え方によるので一概に否定も肯定も出来ないし、状況によって変わってくるのだから難しい。

また、プライバシーや人権の保護等といった社会的観点については制裁などで表記することもやぶさかではないが、こちらについては法律という壁がある以上難しい。

妥協も必要だが、言論・表現の自由は個人が決めること、このバランスがなくなってしまうのであれば全てが狂言でしかない。

マリオネットという操り人形になるのであれば私は世捨て人になった方が良い。

維新(以心)伝心が出来ていない

先週の日本維新の会の橋本共同代表の従軍慰安婦についての発言が未だに収束はおろか着地点すら見えてこない。

その上、同会の西村慎吾衆院議員も同様の件について発言をし、その後は発言撤回と離党届を提出という事態。

見ていてあまりにもお粗末であり、政党も所属議員ですらもこれではとてもでないが国政を任せられない。

橋本氏は謝罪をするも発言撤回は無く処分も無いが、西村氏は除籍である。

これはおかしいのではないのだろうか。

本来であれば個人の発言にしろ、政治家という公の職に就く人間が発する一言は影響がある。

一方が党に守られ、一方は責任を取るのに党が守るどころか処分をしようとしている。

こんな政党に誰が投票するのだろうか。

この漁夫の利を狙う政党もあるようだが、そんなことでしか勝てない政党もいらない。

思い切ってガラガラポンしてしまうべきではないのだろうか。

これでは将来が見えてこないどころか不安が暗雲するばかりだ。

ノスタルジアに浸るばかりではいけない

先日、仕事でとある居酒屋へ行った。

そこは昭和初期を彷彿とさせる場所で、昭和中期に生まれた方々は大はしゃぎだった。

私は昭和末期の世代だからそこまではと当初は思っていたが、やはり歴史を学んだものからすればいい空間で、なおかつ昔話も聞けるから居心地がよくなってしまう。

そのためか、人生で初めて食用蛙を食べた。

最初は躊躇したのだが、食べてみるとあっさりしていて鶏肉のようだった。

とはいえ、以前親から聞いた「蛙を食べていぼが出来た」ということが未だに頭から離れないのだが、その時は最先端の皮膚治療に期待するしかない。

話はそれてしまったが、その空間にいた2時間弱は非常にいいものであった。

とはいえ、いつまでもそのようなノスタルジアに浸ってばかりではいけない。

大きく動いている歴史の中で、忘れてはいけないことはたくさんあるし、受け継がなければいけないことは山のようにあることはわかっている。

しかし、我々も生きていく中で少しずつ進化を遂げる為には仕方なく無くしていったものが多い。

色々な意味合いを考えてみれば全てにおいて未だにノスタルジアに浸りっぱなしなのではと改めて思う。

葛藤は続くが、今後のこと、未来のことを考えればそろそろ転換期、終焉の部分もあるだろう。

いい思いはなかなか出来たものではない。

いつまでもノスタルジアに浸るばかりでなく、前を向くこともしていかなければならない。

ただただそう思えてならないのだ。

具体的根拠は特別無いのだが、そう思い、考えてしまったのだ。

現実を直視してこそのノスタルジア、今を忘れる為、過去に逃げる為のノスタルジアはもう終わりにしよう。

簡単にはいかないが。

憲法改正についてちょっと考える。

安部政権になり、憲法改正議論が白熱化している。

改憲をするための第一歩は衆参両議員の3分の2以上の支持を集め、次に国民からの過半数の支持を得なければ憲法改正は出来ない。

今年の夏に行われる参議院選挙で自民党や改憲寄りの日本維新の会やみんなの党が議員を増やすかが焦点である。

私が考えるに、衆参両議員の3分の2以上の支持を得ることは可能だろう。

現在の自民党の勢いはそう簡単には止まらないし、議員にも改憲論者は根強い。


しかし、改憲には大きな壁がある。

特に最大の壁は「憲法9条」である。

第2章 戦争の放棄
 
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
(日本国憲法より引用・抜粋)

しかし、この内容には矛盾がある。

現状のままでは国際紛争に巻き込まれても武力行使を放棄している上、交戦権すら認められていないので、 戦争はおろか防衛すら出来ないはずなのだが、我が国は「自衛隊」という軍隊を持っている。

某国がミサイルを撃つ時には迎撃用のミサイルを打てるようにし、別の某国から軍事協力を求められると金が物資の支援、護衛まで行っている。

この時点で既に憲法9条は意味を成していない。

唯一の被爆国である我が国としては戦争を二度としないということは守らなければいけないのだが、国際社会の一翼を担う以上は最低限のことをしなければいけない。

そのためには戦後、欧米諸国により無理やり押し付けられたような憲法ではいけないと私は考える。

9条だけではない、天皇以下皇族の処遇、国政についてなど様々な点において変わらなければいけない。

太古の時代より法律は変わっている。

いつまでも護憲では何一つ悪い点は改善されない。

だからこそ改憲は必要だと思うのだが、改憲をする以上は最低限守るべきことは守らなければならない。

逃げ腰や弱腰でなく、かといって強気ではなく、日本が日本として生きていく憲法にしてもらいたいと切に願う。


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