菅直人首相の後釜が決まった。
野田佳彦財務相である。
当初は本命とされていたが、盟友・前原誠司前外相と小沢一郎元代表と鳩山由紀夫前首相から支持を取り付けた海江田万里経産相が立候補したことにより代表戦では勝てないと思われた。
しかし、蓋を開けてみれば野田が勝ち、海江田が敗れた。
理由は簡単である。
「小沢一郎」という存在だ。
前回の代表戦では菅対小沢対樽床伸二議員(現:衆議院国家基本政策委員長)で戦い、結果、菅が勝利し、小沢が破れて反主流派に転落し、その後政治資金規正法違反で検察審査会によって起訴され、党からも党員資格停止処分にされた。
今回の菅失脚は小沢には復権の好機だったが、主流対反主流、言い方を変えれば反小沢か親小沢の選挙になり、結果として反小沢が勝った。
野田が勝ったのは反小沢と海江田への不信感を持った票の獲得だろう。
海江田が負けたのは、「自公民」の3党合意を白紙に戻すような発言が主だと考える。
小沢・鳩山が背後にいたとしても、あの発言がなければ僅差もしくは逆転は出来たはずだ。
そして、党役員人事。
「ノーサイド」という言葉を前面に押し出すように、野田はこのような布陣をした。
幹事長に輿石東参議院会長、幹事長代理に樽床、政調会長に前原、国会対策委員長に平野博文元官房長官を起用する。
輿石は小沢系、平野は鳩山系であることを踏まえると、このような人事も悪くはないだろうが、党内融和を前面に出しすぎた感があるのはいうまでもない。
また、閣僚人事においても試行錯誤が繰り返されそうであるが、最終的にはこちらも党内融和だろう。
専門性に欠け、迅速力もないような内閣では倒閣は避けられない。
鳩山や菅の二の舞にならないようにすることが新首相最初の課題だろう。
Archives : 2011年08月
所詮男も女も消耗品=自己満足
作家の村上龍さんの著書に「すべての男は消耗品である」というものがある。
「消耗品」という言葉が気になっているものの、まだ読んではいない。
読む以前に、「男は消耗品なのか」という疑念が私に中に残った。
ここからは個人的な考察になるので、不快感を覚えた方には先に言っておきたい。
「消耗品=1度きり、もしくは使用が限られている物」というのが一般的な見方である。
おそらく、男が消耗品という表現は女から見る「容姿」や「地位・名誉」に「金銭」や「性的欲求を満たす」なことではないかと思う。
女からすれば上記キーワードが全て好条件であればこれほど好ましいことはない。
それらを得ることが出来れば自身の女としてのステータスが上がるというものだ。
しかし、いずれかの条件、もしくは不一致が生じればあっという間に興味を無くし捨てられてしまうし、もしくは見る気もされない。
そう考えるとまさに「男は消耗品」である。
だが、男からしても逆のことが言える。
男だって女に対し好条件を求める。
特に男女問わず求められる好条件は「容姿」だろう。
「スタイルがいい」や「服装がいい」、または「顔」に「胸」などのパーツがいいと言ういわゆる「美男美女」だ。
まずはこの段階で「選別」が始まる。
私は論外の人間だから蚊帳の外で見ているが、実際に目の当たりにすると、「ここまで差別が」というほど扱いも変わってくる。
ここからスタートし、さらなる「選別」がスタートするが、中には妥協し、元々興味のないことだからここで終わってしまうこともあるだろう。
全ての選別を終え、残ったものが「勝者」となる。
しかし、なったからと言って安心は出来ない。
「時」が変化をもたらすのだ。
その変化が「消耗品」という状況を生み、また「商品」となっていく。
もっと悪く言えば「自己満足」の果てみたいなものだ。
とはいえ、この循環により今の我々がある。
所詮は「自己満足=消耗品」なのだ。
我々にも寿命がある。
この寿命こそが私たちの商品価値なのだ。
と、勝手に解釈をしてしまったが、これも「自己満足」なのだろう。
「消耗品」という言葉が気になっているものの、まだ読んではいない。
読む以前に、「男は消耗品なのか」という疑念が私に中に残った。
ここからは個人的な考察になるので、不快感を覚えた方には先に言っておきたい。
「消耗品=1度きり、もしくは使用が限られている物」というのが一般的な見方である。
おそらく、男が消耗品という表現は女から見る「容姿」や「地位・名誉」に「金銭」や「性的欲求を満たす」なことではないかと思う。
女からすれば上記キーワードが全て好条件であればこれほど好ましいことはない。
それらを得ることが出来れば自身の女としてのステータスが上がるというものだ。
しかし、いずれかの条件、もしくは不一致が生じればあっという間に興味を無くし捨てられてしまうし、もしくは見る気もされない。
そう考えるとまさに「男は消耗品」である。
だが、男からしても逆のことが言える。
男だって女に対し好条件を求める。
特に男女問わず求められる好条件は「容姿」だろう。
「スタイルがいい」や「服装がいい」、または「顔」に「胸」などのパーツがいいと言ういわゆる「美男美女」だ。
まずはこの段階で「選別」が始まる。
私は論外の人間だから蚊帳の外で見ているが、実際に目の当たりにすると、「ここまで差別が」というほど扱いも変わってくる。
ここからスタートし、さらなる「選別」がスタートするが、中には妥協し、元々興味のないことだからここで終わってしまうこともあるだろう。
全ての選別を終え、残ったものが「勝者」となる。
しかし、なったからと言って安心は出来ない。
「時」が変化をもたらすのだ。
その変化が「消耗品」という状況を生み、また「商品」となっていく。
もっと悪く言えば「自己満足」の果てみたいなものだ。
とはいえ、この循環により今の我々がある。
所詮は「自己満足=消耗品」なのだ。
我々にも寿命がある。
この寿命こそが私たちの商品価値なのだ。
と、勝手に解釈をしてしまったが、これも「自己満足」なのだろう。
新しい内閣に求める力
6月に退陣表明をしながら、依然『内閣総理大臣』のポストに収まる菅直人。
求心力、支持率の低下に党内外からの声に耳を貸さず、あくまでも自分の言動=国家方針という考えを持っているのだから、ここまで来れば逆に「お好きにどうぞ」としか言えないくらい呆れ果て、嫌味しか言えなくなる。
普天間基返還問題で迷走した挙句に辞任した鳩山由紀夫政権の後を引き継いだとはいえ、彼が残した負の遺産は燻り、かえって自身がその遺産を拡大させ、その上、3月11日の東日本大震災の処理の下手さが、より国民に対して不信感を増徴させてしまった。
なのに、一国の首相たる人間がここまで権力の座にこだわるとは考えがたいものだ。
まるでどこぞの国の独裁者のごとく権力を保持し、天下国家を動かすなど言語道断である。
とはいえ、ここまで強気でいるのだから、それをもっと活用出来ればここまで信頼を失墜することはなかったのではと思う部分も見受けられるが、「イラ菅」などとあだ名がある時点で権力者には向いていないとは思うのは私だけであろうか。
それにしても、最近は民主党内が騒がしい。
ポスト菅を巡り色々な動きがあるが、私からすれば内部闘争などやっている場合ではないと強く提言したい。
先日、ある政治評論家が救護内閣の人事案を発表していたが、正直って期待が出来るものではない。
今後の内閣に一番求められているのは以下の点ではないだろうか。
実行力、外交力、信頼力、信用力と色々掲げればきりがないのだが、この4点は重要だと私は考えている。
即決即断という状況でなければ震災復興は難しいし、対アジア・欧米諸国との外交も上手く立ち回らないと相手の言いなりになってしまう。
そのような中で国内外から信頼力と信用力を取り戻さないといけない。
そのことを踏まえて考えれば、どのような人物が内閣を率い、なおかつどのように天下国家を動かすか分かるはずだ。
そのためには各分野のスペシャリスト・ゼネラリストを起用すべきである。
そのためには1人の閣僚に対して複数の大臣職を兼務させず、複数になっても単体の業務を遂行させるべきであるが、その場合にかかる人件費は全て削減をすれば問題ないはずである。
さらには、役所によっては対外交が必要になるケースがあると思うので、必要用途に応じて副大臣・政務官の権限や役割を強化すべきであり、また、大臣も対が外交に強い人間を任命することもいいのではないのだろうか。
また、官僚を上手く使うことも必要だと思う。
国民からすれば反発を得るかもしれないが、政治家の出来る仕事にも限界がある。
それをカバーするのが官僚ではないのだろうか。
その辺りを上手く調整し、天下国家を動かすことが、今後の内閣に求める要素であると私は考えたい。
求心力、支持率の低下に党内外からの声に耳を貸さず、あくまでも自分の言動=国家方針という考えを持っているのだから、ここまで来れば逆に「お好きにどうぞ」としか言えないくらい呆れ果て、嫌味しか言えなくなる。
普天間基返還問題で迷走した挙句に辞任した鳩山由紀夫政権の後を引き継いだとはいえ、彼が残した負の遺産は燻り、かえって自身がその遺産を拡大させ、その上、3月11日の東日本大震災の処理の下手さが、より国民に対して不信感を増徴させてしまった。
なのに、一国の首相たる人間がここまで権力の座にこだわるとは考えがたいものだ。
まるでどこぞの国の独裁者のごとく権力を保持し、天下国家を動かすなど言語道断である。
とはいえ、ここまで強気でいるのだから、それをもっと活用出来ればここまで信頼を失墜することはなかったのではと思う部分も見受けられるが、「イラ菅」などとあだ名がある時点で権力者には向いていないとは思うのは私だけであろうか。
それにしても、最近は民主党内が騒がしい。
ポスト菅を巡り色々な動きがあるが、私からすれば内部闘争などやっている場合ではないと強く提言したい。
先日、ある政治評論家が救護内閣の人事案を発表していたが、正直って期待が出来るものではない。
今後の内閣に一番求められているのは以下の点ではないだろうか。
実行力、外交力、信頼力、信用力と色々掲げればきりがないのだが、この4点は重要だと私は考えている。
即決即断という状況でなければ震災復興は難しいし、対アジア・欧米諸国との外交も上手く立ち回らないと相手の言いなりになってしまう。
そのような中で国内外から信頼力と信用力を取り戻さないといけない。
そのことを踏まえて考えれば、どのような人物が内閣を率い、なおかつどのように天下国家を動かすか分かるはずだ。
そのためには各分野のスペシャリスト・ゼネラリストを起用すべきである。
そのためには1人の閣僚に対して複数の大臣職を兼務させず、複数になっても単体の業務を遂行させるべきであるが、その場合にかかる人件費は全て削減をすれば問題ないはずである。
さらには、役所によっては対外交が必要になるケースがあると思うので、必要用途に応じて副大臣・政務官の権限や役割を強化すべきであり、また、大臣も対が外交に強い人間を任命することもいいのではないのだろうか。
また、官僚を上手く使うことも必要だと思う。
国民からすれば反発を得るかもしれないが、政治家の出来る仕事にも限界がある。
それをカバーするのが官僚ではないのだろうか。
その辺りを上手く調整し、天下国家を動かすことが、今後の内閣に求める要素であると私は考えたい。
思いつき・・・・・されど正す部分は明確に
久々に本格的な料理に挑んだ。
と、言えば聞こえはいいが、実際はそこまでの意気込みもなければ本格的なのかもわからないのが本音である。
私の料理は基本的に思いつきである。
常に自身の勘と閃きにより作り出される。
ただし、そんな料理でも1つだけ決めていることがある。
それは不味い物を作らないということだ。
いくら適当とはいえ、作るんだからそれなりに食べられるものじゃないといけない。
とはいえ、5回に1回は不味い物を作ってしまうのだが、そういうものは絶対に人には食べさせない。
人に食べさせる時は必ず満足してもらえるようにしている。
調理師でもなければ技術もない。
でも、美味い物は出来るものだ。
最近は料理をあまりしなくなったからスランプ気味ではあるが、余裕が出来たら人にまた食べさせられるものを作ろうと思う。
何事もそうだが、全てが口八丁手八丁ではいけない。
明確しなければいけない部分は正すべきだ。
と、言えば聞こえはいいが、実際はそこまでの意気込みもなければ本格的なのかもわからないのが本音である。
私の料理は基本的に思いつきである。
常に自身の勘と閃きにより作り出される。
ただし、そんな料理でも1つだけ決めていることがある。
それは不味い物を作らないということだ。
いくら適当とはいえ、作るんだからそれなりに食べられるものじゃないといけない。
とはいえ、5回に1回は不味い物を作ってしまうのだが、そういうものは絶対に人には食べさせない。
人に食べさせる時は必ず満足してもらえるようにしている。
調理師でもなければ技術もない。
でも、美味い物は出来るものだ。
最近は料理をあまりしなくなったからスランプ気味ではあるが、余裕が出来たら人にまた食べさせられるものを作ろうと思う。
何事もそうだが、全てが口八丁手八丁ではいけない。
明確しなければいけない部分は正すべきだ。
人生の計算
先日、書棚からとある本を見つけ、読み返した。
タイトルは「あと千回の晩飯」、作者は忍法帖シリーズで有名な作家の山田風太郎氏。
この作品は、パーキンソン病になった作者が、あと晩飯を食べられるのは千回くらいだろうと予見し、自身の晩飯や様々な考察感を描いたエッセイだ。
読んでいてふと考えたのは、私があと晩飯、いや三食を全うに食べられる時期はどのくらいだろうかということだった。
現在25歳、日本人男性の平均寿命が約79歳だから残り54年。
その54年に三食を365日(閏年の1日を省く)食べたとして計算すると、59,130食も食べることになる。
まあ、実際はもっと少ないか、間食を入れれば多くなるのかは定かではないが。
ちなみに25歳までには27,375食をすでに食べているのだから、平均寿命を生き抜くためには86,505食必要である。
女性だともっと多くなり、平均寿命を86歳と考えると94,170食。
計算数を見ると驚くが、実際はそこまでの実感はないのだろうし、ここまで考える人はあまりいないだろう。
とはいえ、人間が生まれ、成長し、老いて亡くなるまでにはこれだけの食事が必要で、それを考えると金額だって相当なもの。
仮に1食を全て500円と考え、それを1日3回、年間日数と寿命をかけると43,252,500円〜47,085,000円。
下世話な話であるが、生きるためにこれだけが食費に消えるのかと思うと驚いてしまうし、家庭を持てば全員分の食費を得なければいけない。
今まで育ててくれた両親には頭が上がらない。
タイトルは「あと千回の晩飯」、作者は忍法帖シリーズで有名な作家の山田風太郎氏。
この作品は、パーキンソン病になった作者が、あと晩飯を食べられるのは千回くらいだろうと予見し、自身の晩飯や様々な考察感を描いたエッセイだ。
読んでいてふと考えたのは、私があと晩飯、いや三食を全うに食べられる時期はどのくらいだろうかということだった。
現在25歳、日本人男性の平均寿命が約79歳だから残り54年。
その54年に三食を365日(閏年の1日を省く)食べたとして計算すると、59,130食も食べることになる。
まあ、実際はもっと少ないか、間食を入れれば多くなるのかは定かではないが。
ちなみに25歳までには27,375食をすでに食べているのだから、平均寿命を生き抜くためには86,505食必要である。
女性だともっと多くなり、平均寿命を86歳と考えると94,170食。
計算数を見ると驚くが、実際はそこまでの実感はないのだろうし、ここまで考える人はあまりいないだろう。
とはいえ、人間が生まれ、成長し、老いて亡くなるまでにはこれだけの食事が必要で、それを考えると金額だって相当なもの。
仮に1食を全て500円と考え、それを1日3回、年間日数と寿命をかけると43,252,500円〜47,085,000円。
下世話な話であるが、生きるためにこれだけが食費に消えるのかと思うと驚いてしまうし、家庭を持てば全員分の食費を得なければいけない。
今まで育ててくれた両親には頭が上がらない。
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