過熱批判報道が全てではないのでは?

各種報道を見て思うことは「批判」という感じの内容ばかり。

無論、本当に糾弾すべきことは批判をしてもいいはずだが、どうも批判するやり口が気に入らない。

昨日もそうだが、某ニュースキャスターのヨット事故による海上自衛隊の救助についての批判が国政の場で語られるということがあった。

某議員の発言はどうも世間を気にしての発言でしかないように思えてならない。

それだけではなく、某キャスターの過去の言論についてまでさかのぼり今回の件と照らし合わせて批判をしている方々が多くいる。

何故、世間は揚げ足を取るような批判ばかりするのだろうか。

発言と現実は常に一蓮托生ではないと私は考えている。

全てイコールであるなんてことは現実的にありえないのだ。

それ以外にも某県の議員が自身のブログでの発言で物議になり、急死されたので自殺ではという事態になった。

また、某女性タレントの親族の保険金詐欺による国際手配も同じで、本人が無関与という話があるにもかかわらず追い詰めるような報道。

少し前では大臣まで勤めた政治家が飲酒会見疑惑過熱報道され、その後本人が急死し、本人の父親も急に自殺するということが過去にあったので同様なのではという報道もあった。

何だろうか、何をしても当事者であれそうでなかれ批判する過熱報道しかされていない。

批判はいいが、それ以外には何もないのか。

同情するもよし、相手を反省させ更生または応援するもよしというような報道はないのか。

何もかも批判ではとてもじゃないけどこの先何が正しいのかわからなくなる日がそう遠くない将来にきっとやってくる。

その時当事者になったらどんな心境だろうかと思うと怖く恐ろしい。

SNSが誰でも使えるようになった現代、情報が得やすくなった現代、簡単に情報発信出来る様になった分の代償かのかもしれない。

今日の一言
「命の扱い、心の扱い、人の扱い、何もかもが軽んじられているような気がするのは私だけか?」




躍進・埋没

先日の東京都議会選は自民・公明両与党が全勝という結果で幕を閉じた。

今から4年前の政治情勢を考えれば余程民主党政権が酷かったことを露呈する結果と言える。

そんな民主党、都議会第2勢力を狙っていたが公明党だけでなく共産党にすら負けてしまい散々な結果、
注目を集めていた日本維新の会もなんだかんだで2議席確保という有様。

やはり寄集め政党で考え方に統一がなければ政党政治なんて出来るわけがないし、信頼回復を前提に国政や選挙活動なんかも行っていなかったように思えるのは私だけだろうか。

しかし、ここにきて共産党の躍進には驚いた。

元来より組織の安定力は公明党以上に強いと思っていたが、党員の高齢化や選挙民離れが加速し、国政選挙でもかつての勢いを感じることは出来なかったのだが、まさか先の与党に勝利しようとは。

憲法改正、消費税増税、原発の有無といった諸問題の中で、野党として一貫して反対を貫いている姿勢は有権者からすれば受けが良いし、考え方も戦前戦後問わず一貫した姿勢であることが政党として認められたという点もあるが、おそらく無党派層は選択肢の中で考え方が「ぶれぶれ」の政党よりも政党らしい政党に入れた結果、今回の結論に至るというわけだろう。

ただ、「言論の自由」と言っても「表現の自由」は認められていないようで、日本維新の会は散々足る結果。

ある意味、漁夫の利を得たのはみんなの党だけだろうか、他党は埋没に次ぐ埋没で議席も取れぬ有様。

夏の参議院選までわずかとなったが、どのようになるのであろうか。

野党は体制の立て直しが急務、与党は支持率を下げぬように言論や行動には注意すべきだ。



今日の一言
「何事もほどほどが一番というが、その方が気が楽かも」

子供の頃と今

誰しもが必ずある「子供の頃」は、個々にそれぞれ描いた夢があった。

時が流れ、大人になった時、改めて昔を振り返ると「理想と現実」というギャップに驚きを隠せない。

まぁ、子供の頃の考え方といえば直感的なものが多いのだから無理もない。

小学校の卒業文集の自己紹介欄に自身の夢を記入する欄があり、女の子は「保母さん」とか「学校の先生」だとかちょっと現実に近いことを書いたりするが、逆に男の子は「ヒーロー」や「偉い人」といったちょっと夢というか曖昧というかそういう感じに書いてある。

それが成長する過程で様々な方向性に行ったりきたりで、気付いたら男女ともサラリーマンという方々が大半だろう。

なかなか子供の頃の夢を現実にすることは簡単なようで難しい。

私も似たようなもので、一貫性がないまま今に至っている。

満足なのか不満なのかと言われてもなかなか答えは出せないが、個人的にはこんなものだろうと割り切っている。
憶測で申し訳ないが、世の大半の方々は同じだと思う。

そんな中で、子供の頃からの夢を現実にしてしまう方々もいるのだから凄い。

私の知り合いや友人にも何人かそういう方はいるが、夢をかなえてもなかなか思うようにはいかないと言う。

子供の頃の視点と大人の視点では確かに違うし、成長する中で様々な考え方も養われるのだから当然と言えば当然なのだが、それでも「有言実行」ということだから立派というか尊敬というかとにかく凄い。

今の子供は現実的になっていると聞くが、実際はどうなのだろうか。

あまり現実的になるよりは少なくとも大人になるまでは夢を見てもらいたいものだ。

私心が一番わからない・・・・。

何かをするとき、最後に決断するのは本人である。

その「何か」は多種多様なためあえて事例等は書かないが、その決断が全て正しいのかはわからない。

私という人間が正しいと思い動いたとしても、万人がそれを受け入れるのかといえばそうではない。

必ずしも反対の声もある。

しかしながら何かをするときは「私心」が最後の決断の要である。

その「私心」がどこにベクトルを向けているかが物事の左右を決める。

とはいえ、その「私心」が時にわからなくなってしまうことがある。

分別がつかないとか理性がないとかというものでもなければ正当か妥当か不当かもわからない。

何がどうなっているのかすらも判らなくなってしまうことが一番怖い。

表立った答えが判ればいいのだが、「私心」というものは自身の考えであるため、余計に錯乱する。

なかなか自身の判断すら難しい。

人は「私心」で動くのだから贅沢だが、逆に貧しくもあるような気がする。

このままだと不毛な形になりそうなのでこの辺で。


話題に乗らないと非国民?

最近の話題と言えば、サッカーW杯日本代表の本戦出場決定とAKB48の選抜総選挙、あとは野球くらいだろうか。

正直な話、特段興味を持つことはなかったが、さすがに話題になると困惑してしまうから素直に見ていないというとこれまた相当な顰蹙を受けてしまった。

別に興味がないと言えば嘘になる。が、そこまで興味があるかと言えばそうでもない。

誰しも中途半端な興味はあるはずなのだが、大多数いれば興味も共通というわけで。

しかしながら、スポーツやエンターテイメントという観点で興味を持ちながら、世論は国内外の社会的問題や政治にはなかなか興味を持たない。

いや、興味を持たないというより、興味を持っても仕方ないというような感じだろうか。

領土問題にしろ、従軍慰安婦問題にしろ、拉致問題や金融政策、政党間の対立なんて直接何かを働きかけても何にもならない。

所詮最後は政治家と官僚の度量と技量次第。

本来であれば後者に重きを置かなければいけないのあろうが、興味を持つこと自体意外とタブーなのかもしれない。

それであれば身近で応援出来るスポーツやエンターテイメントの方がはるかに気が楽で面白い。

半世紀も前は同等か逆でしかなかったのだが、これも時代の遷り変わりと言える。

まぁ、興味を持たないからといって非国民にはならないだろうが、結局のところ、行き着く先はそこなのだろう。

もう少し、様々なことに興味を持つことも必要かと思う今日この頃である。

今日のひとこと
「梅雨なのに梅雨にならず。雨季は何処へ」

梅雨入り

昨日から関東地方は梅雨入りになったとの報道があった。

確かにここ数日間の天気からすればそろそろとは思っていたが、意外と早かった。

気象庁の公式データを見ると、昨年は6月8日に梅雨入りになったそうで、過去30年の統計平均では10日、前年度比では11日早かったそうだ。

それに今までの統計の中で歴代3位に入る速さとのこと。

春夏秋冬という四季の中で、天気も時期により様々だが、近年の気象データは気候の変動等により例年より早くなったり遅くなったりするそうだ。

昨年の梅雨明けは7月25日、統計平均だと7月11日、今年はどうなるのだろうかわからないが、近所のスーパーでは早速梅雨入り対策の用品を店頭に並べたり、クールビズ商品も多く取り揃えられていた。

そろそろ夏がやってくる。

周囲では五月病ではないが、ちょっとした気鬱的な雰囲気が漂っているだけに心配だが、耐えれば楽しい夏である。

思いっきり気分転換をして秋冬に備えてもらいたいものだ。

今日の一言

「見えない病が様々なものを蝕んでいる、断ち切るのは己次第」

言論・表現の自由は大切なのだが・・・・・。

先日、作成した文面に対してご指摘を受けた。

「固有名詞や社名等を載せないほうが良いのでは」とのこと。

私のことを思ってだと思うのだが、正直な話、お節介だと思う。

内容や固有名詞等を暈すことも必要ではあると思うが、それは他人が決めることではない。

何事もそれに左右されてしまうのでは正直言って、言論・表現などしたくない。

また、面子や保身でそれをやられてはコミュニケーションというもの自体私は成り立たないと考える。

こればかりは各人の考え方によるので一概に否定も肯定も出来ないし、状況によって変わってくるのだから難しい。

また、プライバシーや人権の保護等といった社会的観点については制裁などで表記することもやぶさかではないが、こちらについては法律という壁がある以上難しい。

妥協も必要だが、言論・表現の自由は個人が決めること、このバランスがなくなってしまうのであれば全てが狂言でしかない。

マリオネットという操り人形になるのであれば私は世捨て人になった方が良い。

維新(以心)伝心が出来ていない

先週の日本維新の会の橋本共同代表の従軍慰安婦についての発言が未だに収束はおろか着地点すら見えてこない。

その上、同会の西村慎吾衆院議員も同様の件について発言をし、その後は発言撤回と離党届を提出という事態。

見ていてあまりにもお粗末であり、政党も所属議員ですらもこれではとてもでないが国政を任せられない。

橋本氏は謝罪をするも発言撤回は無く処分も無いが、西村氏は除籍である。

これはおかしいのではないのだろうか。

本来であれば個人の発言にしろ、政治家という公の職に就く人間が発する一言は影響がある。

一方が党に守られ、一方は責任を取るのに党が守るどころか処分をしようとしている。

こんな政党に誰が投票するのだろうか。

この漁夫の利を狙う政党もあるようだが、そんなことでしか勝てない政党もいらない。

思い切ってガラガラポンしてしまうべきではないのだろうか。

これでは将来が見えてこないどころか不安が暗雲するばかりだ。

ノスタルジアに浸るばかりではいけない

先日、仕事でとある居酒屋へ行った。

そこは昭和初期を彷彿とさせる場所で、昭和中期に生まれた方々は大はしゃぎだった。

私は昭和末期の世代だからそこまではと当初は思っていたが、やはり歴史を学んだものからすればいい空間で、なおかつ昔話も聞けるから居心地がよくなってしまう。

そのためか、人生で初めて食用蛙を食べた。

最初は躊躇したのだが、食べてみるとあっさりしていて鶏肉のようだった。

とはいえ、以前親から聞いた「蛙を食べていぼが出来た」ということが未だに頭から離れないのだが、その時は最先端の皮膚治療に期待するしかない。

話はそれてしまったが、その空間にいた2時間弱は非常にいいものであった。

とはいえ、いつまでもそのようなノスタルジアに浸ってばかりではいけない。

大きく動いている歴史の中で、忘れてはいけないことはたくさんあるし、受け継がなければいけないことは山のようにあることはわかっている。

しかし、我々も生きていく中で少しずつ進化を遂げる為には仕方なく無くしていったものが多い。

色々な意味合いを考えてみれば全てにおいて未だにノスタルジアに浸りっぱなしなのではと改めて思う。

葛藤は続くが、今後のこと、未来のことを考えればそろそろ転換期、終焉の部分もあるだろう。

いい思いはなかなか出来たものではない。

いつまでもノスタルジアに浸るばかりでなく、前を向くこともしていかなければならない。

ただただそう思えてならないのだ。

具体的根拠は特別無いのだが、そう思い、考えてしまったのだ。

現実を直視してこそのノスタルジア、今を忘れる為、過去に逃げる為のノスタルジアはもう終わりにしよう。

簡単にはいかないが。

憲法改正についてちょっと考える。

安部政権になり、憲法改正議論が白熱化している。

改憲をするための第一歩は衆参両議員の3分の2以上の支持を集め、次に国民からの過半数の支持を得なければ憲法改正は出来ない。

今年の夏に行われる参議院選挙で自民党や改憲寄りの日本維新の会やみんなの党が議員を増やすかが焦点である。

私が考えるに、衆参両議員の3分の2以上の支持を得ることは可能だろう。

現在の自民党の勢いはそう簡単には止まらないし、議員にも改憲論者は根強い。


しかし、改憲には大きな壁がある。

特に最大の壁は「憲法9条」である。

第2章 戦争の放棄
 
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
(日本国憲法より引用・抜粋)

しかし、この内容には矛盾がある。

現状のままでは国際紛争に巻き込まれても武力行使を放棄している上、交戦権すら認められていないので、 戦争はおろか防衛すら出来ないはずなのだが、我が国は「自衛隊」という軍隊を持っている。

某国がミサイルを撃つ時には迎撃用のミサイルを打てるようにし、別の某国から軍事協力を求められると金が物資の支援、護衛まで行っている。

この時点で既に憲法9条は意味を成していない。

唯一の被爆国である我が国としては戦争を二度としないということは守らなければいけないのだが、国際社会の一翼を担う以上は最低限のことをしなければいけない。

そのためには戦後、欧米諸国により無理やり押し付けられたような憲法ではいけないと私は考える。

9条だけではない、天皇以下皇族の処遇、国政についてなど様々な点において変わらなければいけない。

太古の時代より法律は変わっている。

いつまでも護憲では何一つ悪い点は改善されない。

だからこそ改憲は必要だと思うのだが、改憲をする以上は最低限守るべきことは守らなければならない。

逃げ腰や弱腰でなく、かといって強気ではなく、日本が日本として生きていく憲法にしてもらいたいと切に願う。


考え方、見方を変えてみればいいのでは?

様々な諸問題を見ていると大抵が固定概念を念頭に入れた対応ばかり。

これでは解決する問題も解決出来ないのは当然だと思う。

固定概念を覆すことはそう簡単にはいかず、大抵が異端扱いである

しかし、我々が今このようにして生活しているのは様々な異端が、革新があってであることを、今を生きる我々は
忘れかけている。

考える力、学習する力があるからこそ、今の生活を、そして未来へつながる生活が出来る。

考え方は単純かもしれないが、単純に考えることが今の我々には必要といえる。

固定概念という考えから脱却することは思ったより簡単だと思う。

見方を変えればよい。

同じ方向から物事を解釈したところで結論は変わらない。

それであればもめている双方が和解することはまずありえない。

妥協するにしても相手側の態度や内容が十分理解・納得出来るもののでないといけないのだが、
それすら出来ない。

何をするにしても過去のしがらみやらメンツやらで、くだらなすぎる。

我々は安易に思考を止めてしまっているのだろうかとすら考えてしまうときもある。

どちらかが有益になるような考え方ではもう生きていくことは出来ないと私は考える。

これからはバランスが必要であり、様々な部分にて共存共栄が出来なければいけないのだが、今のままでは
酷くなる一方である。

私だけでなく、一個人では出来ることに限界がある。

集団で動きにしても、結束力、団結力があれば良いが、リーダーシップや責任はなかなかとれない。

だからこそ役についている人間が活きなければならないのではないか。

公職に就く者や企業の役員・管理職、一家の長など威厳のある人間が動けば必ず問題は解決出来ると
私は信じたい。

裸一貫の原人から進化し、今では未来まで構築出来るのだから。

「無」の勧め

そろそろゴールデンウィークだ。

今年は最大で10連休になるというのだから、観光地にとっては観光客を捕まえる最大のチャンスの一つになる。

『アベノミクス』効果で今年は景気が良いので海外へ行く方々も多いだろう。

日ごろの疲れをゆっくりととってもらうにはちょうどいい骨休めというのが一般的だが、ここにちょっとした落し穴があることをご存知だろうか。

『五月病』である。

どんなものかというと、新人社員や大学の新入生などに見られる、新しい環境に適応できないことに起因する精神的な症状の総称とのことらしいが、簡単に言えば『適応障害』や『鬱病』の一種だ。

骨休めどころか精神的に参ってしまうのだからこれまた面倒や病といえる。

これは新人や新入生だけでなく、部署異動や昇進して管理職になった方々にも言える。

プレッシャーとかコミュニケーションによる意思疎通等々の要因が引き金となり、病気になってしまうようだ。

病は気からというように、思い切って『無』になって見るのも一つだと私は思う。

仕事を忘れ、思いっきり好きなことに勤しみ、その状態で仕事に戻ることもいいし、のんびりと過ごすこともいいだろう。

とにもかくにも心身ともにリラックスすることが一番だ。

様々な心身疲労を持ったまま休みを迎え、改善されなければ余計に悪化してしまう。

そうならないためには『無』になることを勧めてみる。

一票に格差を問う前に

国政選挙において違憲または違憲状態という判例はあったが、とうとう選挙無効判決が出た。

無効といっても、地裁での判決であったので最終的には最高裁判断となるが、ついにこの結果が出たからには政府は是正の対策をとらなければならない。

選挙の方法、政党への議席割り当て、選挙区の割り振りなどの課題は大きく解決には相当な時間がかかる。

国民の一票が反映されていないというが、それは割合の問題であって、投票した側からすれば自身の判断なのだから反映されたという考えでいいと私は思う。

そもそも、わが国では成人になれば選挙権、一定の年齢になれば被選挙権も与えられ、自身の判断で国家を動かすことも可能なのだ。

だが、必ずしも成人した国民が全員この権利を行使しているわけではない。

自ら権利を放棄する者、権利を主張したくても諸事情で出来ない者、個人の権利を流用しようとする者など、によって100%この権利を生かすことが出来ないのだ。

強制的に行うことも一つであるが、組織犯罪に利用されてしまえば全く持って意味をなさない。

選挙を無効にして再度行ったとしても、現状であれば結論はみな同じである。

諸方法を変えればいいという考えだけでは難しいと私は考える。

まずは国民一人一人の意識改革、三権の府の強力が先駆けて必要ではないのだろうか。

結果は結果で、誰彼も矛先を収め、次に生かすべきである。

それが出来なければ半永久的にいたちごっこなままだろう。

落ちればただの人とはよく言うもので。

先日、永田町を歩いていたときの話だ。

とある男性とすれ違った。

最初は誰だろうと思ったが、すぐにわかった。

前官房長官だ。

しかし、彼は1人だった。

周囲は誰一人彼の存在に気付いていない。

また、大臣職を経験しているわけだからSPがいても不思議じゃないが、彼は先の総選挙で落選しているからSPすらついていないのだろう。

「選挙に落ちればただの人」とある大物政治家が昔言ったことを思い出した。

堂々と歩いていたようにも思えたが、よくよく考えてみれば哀愁すらあったのかもしれない。

無論、彼だけがそうではなく、落選した人間の大半がそうだ。

ある元職は何度も落選し、その後は飲食店経営に転じ、ようやく地方首長として復活した方もいたし、違法行為をして、逮捕直前に自殺した方もいた。

何かしら公職に就いたりして復活を目指す方もいれば、隠棲されてしまう方もいるのが政治の世界。

政治家だけではない、その関係者にも同じことが言える。

特に秘書なんかは大変で、仕えている方が落選してしまえば同時に職を失うようなものだ。

大物だったり、財に余裕がある人間であればそんなことはないのだろうが、当選数が1回〜3回の方などは財政難だと思うから真っ先に切り離してしまうだろう。

そう考えると政治家も因果な商売だと私は思う。

ただ、志をもって仕事をしてもらいたいと思う。

季節感を感じない日々

2月も中旬になった。

もう少しで3月、そろそろ春に向けた準備もしたいところだが、依然として寒い。

先日は雪が降ったかと思ったらあっという間に晴れ間で夏のように日差しが照りつけて暖かいを通り越して、
暑いと思ったくらいだった。

それが一変して冷え込みが続き、今日もまた雪が降るという。

季節の気まぐれほど恐ろしいものはない。

場所によっては大災害すら引き起こすのだから、現状を考えればまだまだやさしすぎるのかもしれない。

とはいえ、すぐに春だ。

季節感も味わうくらいがちょうどいいが、実生活を考えるとなかなか難しいものだ。

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